2008年06月18日

映画レビュー#63「乳搾り、背徳の牛舎」

chichisibori2.jpg
基本情報
「乳搾り、背徳の牛舎(痴漢義父、息子の嫁と・・・」(2003、日本)
監督:後藤大輔(ブラインド・ラブ、言い出しかねて)
脚本:後藤大輔
製作:池島ゆたか
出演:麻木涼子、佐々木ユメカ、中村方隆、なかみつせいじ

公式サイト
http://xcity.jp/shin-toho/ROADSHOW/0308/

今作のDVDです。
  

ストーリーと映画情報
酪農家の周吉は息子を事故で亡くし、息子の嫁である紀子と二人で暮らしている。一見平穏な暮らしを送るかに見える二人だが、周吉は明け方になるとボケの症状がでてしまい、かつてかわいがっていた牛がまだ生きていると思い込んでしまう。そんな義父のために紀子は、毎朝牛舎で裸に四つん這いになり、死んだ牛、花子になりすます。周吉はその紀子の乳を本物の花子と思い、お乳が出ないことを心配しているのだが・・・
日活ロマンポルノ時代から活躍するベテランピンク監督、後藤大輔監督の奇想天外なインモラル恋愛劇。

ピンク映画について
現在、アメリカで日本のピンク映画の配給業務に携わっている。不勉強であったので、この仕事に関わる以前は、日活ロマンポルノ以外は見た事が無かった。このピンク映画というジャンル、単にエロティックというだけでなく、多種多様な作品が存在する。数回のセックスシーンがあれば、どのような企画でも通ってしまう風通しの良さがあり、それゆえ監督の個性が存分に発揮されている作品が多い。古くは若松孝二や足立正生、現在日本映画界の第一線で活躍する、周防正行や黒沢清もデビュー作をピンク映画で撮っている。新人監督でもデビューしやすく、作家性を存分に発揮できる土壌は今でも健在であり、今日でも個性的な作品が数多く生まれている。

ピンクでしかなし得ない傑作
この「乳搾り、背徳の牛舎」はまさにピンクでしかなし得ない傑作と云える。正直、ファーストシーンをみただけで仰天し、これは傑作だと確信した。まず題材がすごい。嫁が義父のために牛になりすまし、ボケた義父はその嫁を牛だと思い、乳を搾る。一般映画では、まず実現不可能なアイデアだ。不可解かつインモラルな関係ではあるが、二人の間には純愛が存在する。それは他人のモノサシでははかれない類のものだ。ボケた義父を愛する嫁。彼女は義父を悲しませまいと毎朝牛になりすます。朝のみに発症するまだらボケを認識できない義父もまた息子の嫁を愛している。息子はかつて、牛の花子と共に事故で死んだ。のどかな田舎で暮らす二人の世界に通常の社会が入り込んで来た時、二人の関係は崩れ始める。土地の権利書を狙うブローカー、数年前に家出した実の娘が彼らの異常な関係をなじる。しかしたとえ異常であっても嫁の紀子にとっては義父と一緒にいれることが幸せなのだ。正気を取り戻した義父に、牛の泣き真似をしながら肉体関係を迫る圧巻のラストシークエンスでは、いつのまにかその以上な愛の世界に観客は引きずり込まれている。

本来、愛に決まった型は無い。どれだけ異常であってもそれが純愛であれば美しい。昨今の日本映画でこれほど美しい純愛を描いた作品はない。いや日本映画史を振り返ってみても、これほどの強度の純愛を描いた作品が何本あっただろうか。
今作品は日本映画史に残る傑作だ。

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2008年06月11日

ようやく復活できそうです。

ようやくSanta Monica Collegeを卒業できました。

三年半、長かった。。。。
最後の学期は、インターンシップと学校の授業であまにも忙しかったため、全然更新できていませんでしたが、ようやく復活できそうです。

映画はたくさん見ていたんです、インターンシップの仕事として。
実は、今日本のピンク映画をアメリカで配給しようとしている会社のお手伝いをしているので。

このピンク映画というジャンル、実はこの仕事を始めるまでまったく見た事がありませんでした。
これがまた、面白い映画がたくさんある!
低予算ではあるのですが、セックスシーンをいくつかあればどういう企画でも以外と通るこの業界。面白いアイデアの宝庫ですな。

下記のサイトで、僕らの作った予告編が見れます↓
http://pinkeiga.com

映画の配給、セールスの現場には関わるのは僕も初めて。学ぶ事が多いです。

今後は一般映画の他、ピンク映画のレビューも書いていこうと思います。

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2008年01月15日

映画レビュー#62「ONCE ダブリンの街角で」

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基本情報
「ONCE ダブリンの街角で」(2007、アイルランド)
監督:ジョン・カーニー
脚本:ジョン・カーニー
製作:マルチナ・ニーランド
出演:グレン・ハンサード、マルケタ・イルグロヴァ、ヒュー・ウォルシュ

公式サイト
http://oncethemovie.jp/

2007サンダンス映画祭ワールドシネマ部門観客賞受賞

今作のサウンドトラックです。必聴!
 

ストーリーと映画情報
ダブリンのストリートでオンボロギターで弾き語る男に女は10セントのチップを差し出す。女の執拗な質問攻めに多少ウンザリしつつも、男は女の掃除機の修理の約束をする。途中、女の行きつけの楽器屋で彼女のピアノ演奏に心撃たれた男は、一緒に自分の作った曲を演奏しないかと持ちかける。そのセッションを境に二人の冷えた心が次第に溶解し始める。
「2007年一番の音楽映画」と激賞された、心温まる不器用な二人のラブストーリー

男は不器用、女も不器用、映画も不器用
とても下手くそに作られた映画だ。しかし、やたらと心地良い。結論からいうと、とても良い映画だ。主人公のグレン・ハンサードは、お世辞にも芝居が上手いとは云えないし、照明も統一感が無い。脚本も練り上げられているとは云い難い。何となく二人が出会って、何となく仲良くなり、何となく別れてしまう。にもかかわらず、この映画は僕の目を釘付けにした。いや、耳を釘付けにしたのかもしれない。もしかしたら、五感すべてを釘付けにしていたかもしれない。とにかく、見ている間異様に心地良いのだ。まるで楽しい夢を見ているようだった。

金の無いストリートミュージシャンである男。昼間は掃除機等の日曜家電の修理で生計を立てている。彼には、忘れられない女性がいた。彼は、その過去の女性にいつまでも未練を引きずっている。女はストリートでの花売りと家政婦の仕事で生計を立てている。彼女には幼い娘と英語のしゃべれない母がいる。彼女の夫は祖国チェコにいる。移民という立場で女手一つで母と娘を食わしていかなくてはならない生活に彼女は疲れていた。二人の冷えた心を救ってくれるものは、音楽だった。二人で一つの曲を作り始める。そして次第に打ち解け始めるが、男は夢のためロンドンに旅立つ。女は男の誘いを断る。寂しくて、暖めて欲しいのに、近づけない二人。関係が壊れることを恐れているのだろう。互いの心の深くまで踏み込み切れずに二人は別れの時を迎えてしまう。
凡庸なストーリーだ。しかし、音楽は凡庸ではない。全編を彩る音楽が、この映画全体を、映画館全体をやさしい雰囲気で包む。二人の奏でる音楽は、物語よりも、台詞やカメラワークや照明よりも雄弁に二人の気持ちを語る。監督自身がミュージシャン出身であるのが、大きいだろう。普通の映画監督は、全てを音楽に託して映画を作ろう、などと思うことができないのだ。

全編、愛が溢れている。音楽への愛と映画への愛。制作者達は、この映画に100%以上の愛情を注ぎ込んで作ったに違いない。それだけの愛情を注げる対象を作る事ができたのは一生の誇りだろう。

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2008年01月14日

映画レビュー#61「潜水服は蝶の夢を見る」

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基本情報
「潜水服は蝶の夢を見る」(2007、フランス、アメリカ)
監督:ジュリアン・シュナーベル(バスキア、夜になるまえに)
脚本:ロナルド・ハーウッド(戦場のピアニスト)
原作:ジャン=ドミニク・ボビー
製作:キャサリーン・ケネディ、ジョン・キリク
出演:マチュー・アマリック、エマニュエアル・セリエ、マリ=ジョゼ・クローズ

公式サイト

http://www.chou-no-yume.com/main.html


2007カンヌ国際映画祭監督賞受賞

今作の原作「潜水服は蝶の夢を見る」です。


ストーリーと映画情報
フランス版ELLEの名編集長として名を馳せるジャン=ドミニク・ボビー。美しい妻と子供3人を持ち、社会的地位をある彼に42歳の時、突然脳梗塞が襲う。身体の自由を奪われ、顔が醜く歪み、動かせるのは左目の瞼のみ。そんな彼が、左目の瞬きのみで自伝を書き上げる。
実在した伊達男、ジャン=ドミニク・ボビーのベストセラー自伝、「潜水服は蝶の夢を見る」を希代のアーティスト、ジュリアン・シュナーベルが映画化した驚異の感動作。

豊かな人生とは
身体の一部に障害を持った人物を主人公とした映画はたくさんありますが、身体が一切動かず、言葉も発することが出来ないほどの障害を持った人物を主人公に据えた作品は初めて見ました。今作の主人公、ジャン=ドミニクは脳梗塞に倒れ、動かすことができるのは、左目の瞼のみ。しかも、この作品はそんな男の一人称で語られる。人はコミュニケーションによって喜びを得る動物だ。言葉で会話し、泣いたり笑ったりして感情表現をして関係を築き社会を生きる。「健全」な人間には、もしそれらの表現機能を一切奪われたとしたら、そこには絶望しかないと思うだろう。社会的地位や名声は、時に人を愚鈍にする。しかし、人間の想像力は実はもっと力強いものだ。社会を「健全」に生きる人は、そのことを忘れがちだ。そして、それを忘れてしまうことは、実は「不幸」であるかもしれない。豊かな生活や社会的名声が人を幸せにするとは限らない。時に不幸な体験が、人にもっと豊かな感性を与えてくれることもあるのではないか。

主人公、ジャン=ドミニクは、フランスの有名ファッション雑誌の名編集長。社会的地位もあり、仕事も順調。美しい妻と子供を持ち、何不自由ない生活。誰もが羨むような社会的ポジションを得た男。しかし、なぜだろう。身体も動かせず、表情も変えれず、言葉も発することのできない彼の方が、病気に襲われる以前の彼よりも豊かに生きているように見えるのは。フランスのファッション業界という地球上で最もな華やかな舞台で、美しいモデルと美しい服に囲まれ躍動する彼よりも、車椅子から離れることもできず、ヨダレを垂れ流す彼の方が輝いて見えるのは。瞬きすることでしか表現不可能な彼は、病気になる以前よりも大きな仕事をやってのけた。溢れんばかりの想像力に満ちた自伝を瞬きのみで書き上げた。愛する妻と子供を抱きしめることができなくても愛を感じることを出来ることを証明した。そして彼は、例え全身が不自由でも人間はその想像力によってどこまでも豊かになれることを証明してみせた。

地位や名声に溺れ、豊かな想像力を忘れた時、人は死ぬのだ。ジャン=ドミニクは幸運にも脳梗塞によって甦ることができた。重い潜水服をものともせず飛び回る蝶のような想像力と共に。


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2008年01月03日

2007年の映画

去年は、一昨年よりも映画館に足を運んだ回数が減ってしまった。
まず、これ反省材料。
2007年に公開の始まった作品は数えたら27本しかみていない。。。

特集上映を見に行く機会が多かったことを差し引いても少なすぎだな。。
合計で50〜60本くらい。一昨年の3分の一くらい減ってる。

まあ、少ないが去年の新作映画で最も素晴らしかった作品は、ショーン・ペン「監督」の最新作、「Into the Wild」。

役者としてもアメリカ最高の彼だが、監督としてもトップクラスだということ証明したよ。
監督、ショーン・ペンは男の弱さを描くのがとても上手。インディアン・ランナーしかり、クロッシング・ガードしかり、プレッジしかり。今作もしかり。社会を上手く生きられない若者が一人荒野のアラスカを目指すこの物語にも、そんなペンテイストが満載。そしてショーン・ペンはそんな弱さを許す。人間だれしも強く生きられるわけじゃないんだ、と。そして彼の映画は、弱さを許す強さを持つ。とても、勇気が湧く映画だ。

日本映画では、青山真治監督の新作「サッド・ヴァケイション」が良かった。やさしさに包まれた青山作品。新境地です。

他に印象に残った作品は、デンマークの「アフター・ザ・ウェディング」この監督、スザンネ・ビエールはすごい才能の持ち主。人間の性を知っている、この人は。圧倒的に深い人間ドラマ。
あとポール・バーホーベンの「ブラック・ブック」も良かった。あとジュリアン・シュナーベルの「潜水服は蝶の夢を見る」、「良き人のためのソナタ」、アラン・レネの新作「Private Fears in Pubric Places」、コーエン兄弟の新作「No Country for Old Men」、久々西部劇の「3:10 to Yuma」、リドリー・スコットのオスカー本命作「American Gangstar」。

印象に強く残ったのは、こんなとこか〜
今年はもっとたくさん見なくては!


※去年亡くなられた世界の三巨匠、エドワード・ヤン監督、イングマール・ベルイマン監督、ミケランジェロ・アントニオーニ監督のご冥福をお祈りします。
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2008年01月01日

今年を振り返る

syogainotomo.jpg
さて、日本ではもう年があけてしまったようですが、アメリカは今12/31の夜の7:30。

アメリカで年を越すのは三年目にして初めてです。毎年、出稼ぎに帰っていたのでね。

アメリカでの年越しは、何をしたらいいのかわからないので(笑)、とりあえず2007年を振り返ろうか。

一月、授業料のために出稼ぎ中。アキバで働いてました。あすこは、もう独立したカルチャーが育まれすぎて、同じ国とは思えなかった(笑)いつかアメリカ人の友達を連れて行きたいと思ったよ。そういえば、友達にメイドカフェをおごってもらったっけ。あれはすげえ。わざわざ、おしぼりで手を拭いてくれた(笑)もはや、キャバクラだった。。。。

2月、アメリカに復帰。翌日から即学校。数学とアカウントがダルいクラスだと気づく。
オスカー授賞式を大変な頭痛にもかかわらず、家のみんなと一緒に見る。菊池凛子は受賞せず、ディパーデッドが受賞で「あー、つまんね」とふて寝。

3月、26回目の誕生日。日本食レストランでちょっとしてパーティーを開く。トップに貼った写真は、誕生日プレゼントにこっちのBest friendにもらったもの。手作りだよ〜(泣)嬉しかった、ホントに。
あとケン・ローチの「麦の穂をゆらす風」を日本でも見たにもかかわらず、さらに2回スクリーンで見る。あと自分の含めて4週連続でBirthday Parthだった気がする。

4月、ちょこっとショートの映画の撮影を手伝い。たまに現場の空気はやはり吸いたい。あと、日本に永久帰国する友達とマジックマウンテンに行く。もう二度と行きたくない。絶叫マシンなんて嫌いだ。あと「バベル」のアレハンドロ監督の講座に出席。

5月、勉強に精を出していた、と思う。あ〜、バスキアの靴を買ってしまったんだ、そういえば。

6月、春のセメスター終了。ビジネス1のファイナルをしくじり、Bを食らう。あんな簡単なクラスをもったいない><
あと、K-1のダイナマイトUSAを見に行く。ニコラス・ケイジを間近に見る。あとヨシキ。あとその他いろいろ有名人いろいろ。その後日本に再び出稼ぎで帰国。帰国したまさにその日から、日本は梅雨入り。ふざけんな、このやろう。

7月、出稼ぎ中なので、せっせと働く。日本の夏の暑さににやられる。なにせ3年ぶりに日本の夏だったもんで。そんな中、シモキタの再開発の原告団の一員に。LA在住でもなれるのがびっくり。小田急線の地下化工事はもう始まっている。南口駅前は無機質な工事現場と化していた。切ない。

8月、引き続き暑さにやられる。横浜の花火大会に行く。キレイだった。日本の花火は芸術だ。今度は屋形船の上で見よう!そしてアメリカに帰国。
翌日から即学校。

9月、クラスが5クラスのため、えらく多忙。引っ越しを検討。さらば、Penmar。あの家でいろんな人に出会ったが、家主がいい加減おかしくなりすぎなので、脱出することにした。

10月。あたらしい家で生活スタート。静かだ、そして落ち着く。1歳の小さい子もいるので、楽しい。子供は癒される。しかし、学校がしんどい。映画館にすら行けない日々が続く。グリーンカードの抽選に応募。当たれ、この野郎!

11月、Enflish2のクラスをドロップ。AもBも取れる見込み無し、と判断。厳しい先生だった。クラスが一つ減ったので少し楽になったが、ビジネス法律のクラスに大苦戦。英語力足りね〜、と心から思った。

12月、秋のセメスター終了。まだ最終グレードがわからないのでドキドキ中。Art1のクラスの為のProjectにリサイクルアートを思いつき、ミシンを買って来て、いらない服を切り貼りして、バッグを作る。楽しかったので、これからソーイングを趣味にしようと思う。

今年みた映画の総括は、また今度書こう。

とりあえずみなさん、良いお年を
Happy New Year!
posted by hotaka at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月21日

映画レビュー#60「3:10 to Yuma」


基本情報
「3:10 to Yuma」(2007、アメリカ)
監督:ジェームズ・マンゴールド(ウォーク・ザ・ライン/君につづく道、17歳のカルテ)
脚本:Michael Brandt、Derek Haas、Halsted Welles
製作:Cathy Konrad(17歳のカルテ、スクリーム)
出演:ラッセル・クロウ、クリスチャン・ベイル、ピーター・フォンダ、ベン・フォスター

公式サイト
http://310toyumathefilm.com/

1957年公開のオリジナル作品「決断の3時10分」です。


ストーリーと映画情報
家族4人で荒野に住むダンは、困窮した生活から抜け出すため、囚人護送の仕事を引き受ける。捉えられた囚人は、ギャングの一団のリーダーであり、伝説のアウトロー、ベン・ウェイド。ダンは、町の保安官とベンに負傷させられた老カウボーイと共に、収容所のあるYuma行きの列車の出る町を目指す。しかし、行く先々でベンの手下が彼を奪還しようと襲いかかる。激しい戦闘に見舞われながらも、辛くも町にたどり着いた一行は、それぞれがある決断をくだす。。。
1957年の「3時10分の決断」のリメイク。

非合理的に生きることの格好よさ
現代社会は、人に合理的に生きるように強いる。そうしなければ不利益を被るばかりだからだ。インターネットは素早く、情報を我々に届ける、非常に利便的なシステムだ。義務教育はなぜ存在するのかというと、現代社会は非常に複雑に入り組んでいるため、なにが自分にとって最適な選択なのかをじっくり選ばせる期間としてある。そうして各人が自分の能力に見合った選択を合理的に選んでいく。老人ホームもまた合理的なシステムだ。年老いた両親の面倒を一括してサービス機関に任せる事ができれば、仕事にも子育てにも没頭することができる。現代社会は万事、物事を合理的に押し進めるために設計されている。
日本には武士道というものがあった。「武士道は死ぬことと見つけたり」の言葉が示す通り、なにか不始末があれば死を持って償わなければならない。そんなことでいちいち優秀な人材を失えば、社会は上手く成長しない。故に近代日本は、武士道精神を駆逐した。武士道は、ある種の非合理的な精神を含む。翻ってアメリカのカウボーイ達はどうだろうか。やはり彼らも持っていたのだ、そうした非合理的な格好よさを。

二人の非合理的な決断
ラストシーン、Yuma行きの列車の出る町に着き、ベンはダンに護送の5倍の報酬をもちかけ、逃がせと云う。保安官も命の危険ゆえにさじを投げている。最早その報酬を受け取っても誰も文句は云うまい。ベンの手下だけでなく、町の荒くれ者全員が彼を狙っているのだ。にもかかわらず。ダンは任務を続行する決断を下す。ベンを引き連れ、ダンはたった一人銃弾の嵐を駆け抜け、列車に向かう。ダンはあえなく銃弾に倒れる。ベンの下に手下どもが駆け寄ってくる。しかし、命がけで助けにきた手下達をなんとベンはあっさり撃ち殺す。血の海に一人たっているベンは、恐ろしく非合理的な決断を下す。護送列車に乗り込むのだ。乗らずとも、誰も止めるものなどいないのにも関わらず。しかも、その後、脱獄名人でもあるベンは、脱走を試みる。脱走するならば最初から乗らなければいいのに。
しかしながら、この恐ろしく非合理な行動は、それ故にまぶしく見えるのだ。

友情でもない、愛でもない
ラストで二人の間に出来る絆は、友情とも恋愛感情とも違う。ただの友情ではない、友情に厚い男なら、命がけで救出にきた手下をあっさり撃ち殺しはすまい。かといって「ブロークバック・マウンテン」のような単純な恋愛感情でもあるまい。それは、きっと現代人が無くした、カウボーイや中世ヨーロッパの騎士達や侍達だけが持っていた別の感情だ。
その別の何かを描ける題材は、もはや現代にはほとんどない。
故に西部劇や時代劇というジャンルは貴重なのだ。

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2007年11月18日

映画レビュー#59「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」

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基本情報
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(2007、日本)
監督:吉田大八
脚本:吉田大八
原作:本谷有希子
製作:柿本秀二、小西啓介、鈴木ゆたか
出演:佐藤江梨子、佐津川愛美、永瀬正敏、永作博美

2007カンヌ国際映画祭批評家週間正式出品作品

公式サイト
http://www.funuke.com/index.html

今作の原作小説です。


ストーリーと映画情報
両親の訃報を受け、女優を志す澄伽(すみか)が、上京以来初めて帰郷する。兄の宍道(しんじ)は異様に澄伽を気使い、妹の清深(きよみ)は戦々恐々としている。宍道の嫁、待子はこの家族の事情を知らず、快く澄伽を向い入れる。しかし、美人だが、傲慢を絵に描いたような正確の澄伽は、宍道に無理難題を云い、清深に対して度を超えた暴力行為を繰り返す。澄伽の横暴な振る舞いには、理由だあった。それは澄伽が上京する前、清深が描いた姉に関する漫画だった。その漫画を公表されたせいで、皆が異様な目で自分を見るようになり、演技に集中できず、特別な人間である自分の才能が発揮されないというのだ。澄伽の妹に対する理不尽な暴力が続く中、澄伽はある映画監督と文通を始め、遂には映画出演のオファーの話が舞い込む。それを境に暴力をピタリと止める澄伽だったが、事態は思わぬ方向に向かって行く。
独自の世界観を展開する新進気鋭の作家、舞台演出家、本谷有希子原作のブラックユーモア溢れる人間ドラマ。

去勢できぬ主人公
人間には、二つの視点がある。客観と主観だ。人間はだれしも、小さい時には、万能感に包まれている。それが成長していくにつれ、周囲との関わりや経験の中で、出来ないこともある、という事を認識していく。この過程を精神分析の世界では、「去勢」と呼ぶ。万能感溢れる主観に、それをあきらめさせる客観が入り込み、健全な自己イメージが形成されていく。そうして人は大人になっていく。去勢に失敗した人間はいつまでも存在な自己イメージを捨てることができず、誇大妄想にとらわれてしまいやすくなる。
今作の主人公、澄伽はまさに去勢に失敗した典型的な人物として描かれる。


「あたしは絶対、特別な人間なのだ」のキャッチコピーが示す通り、澄伽は、自己の中に強烈な万能感を抱えている。その強烈な自意識は、周囲の評価を撥ね付けてしまう。田舎の中では一際目を引くであろう、その美貌が災いして、尊大なプライドが形成されてしまったのだろう。台詞を憶えて来ず、オーディションに落とされようが、事務所を解雇されようが、高校の舞台であまりの大根芝居ぶりを笑われようが、全ては、周りにせいにできてしまうほどに、彼女は万能感を持ってしまっている。そんな彼女にとって唯一、自己イメージを破壊させる出来事があった。妹の清深が自分のありのままをホラー漫画として公表したのだ。その結果、澄伽は逃げるように上京する。周囲からの嘲笑をものともしない彼女が、漫画に関してはなぜこれほどダメージを受けるのか。漫画という誌面に起こされた自分の姿は、否応無く客観を彼女に突きつけてしまったからだろう。人は、写真で自分の姿を見るより、鏡で自分の姿を直接見る時の方が、自分を格好良く思ったりキレだと思うものだ。鏡を見るのは主観で、写真を見るのは自分の姿であろうと客観だからだ。
澄伽の尊大な、モロいプライドは、崩れかけるが、それを食い止める方法を、彼女は二つ思いついた。一つは兄の宍道に全面的な承認、包括を求めること。もう一つは、上手くいかない事は、全て妹の漫画のせいにすること。田舎をださい家族を否定している澄伽は、ある意味である意味で兄と妹に依存していると云える。兄に必要とされることということで、自分の存在意義を確かめるという点と、妹の漫画のせいにすることで、自分には才能が無いという事実から逃げることができるという点において。妹の清深も、姉にたいしてある種の感謝をしているだろう。彼女は、脅迫的に自分を押さえ込んで生きている。しかし、彼女の奥底には、異様な表現欲求がある。その事気づいたのは、姉の異様な行動を目の当たりにした時。妹は姉に自分の本性に気づくきっかけをもらったのだ。

姉は、理不尽な暴力を振るいながらも、妹の漫画のせいにしてかろうじて尊大なプライドを保ち、妹は暴力に振るわれながらも、「最高に面白い」姉の言動を見る事によって、ますます表現意欲を高めていく。。。
見事なくらいねじ曲がった姉妹の共依存だ。

しかし、もう少し佐藤江梨子の芝居が上手ければ。。。。。
はまり役だとは思うけど。

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2007年11月13日

映画レビュー#58「大日本人」

dainihonjin.jpg
基本情報
「大日本人」(2007、日本)
監督:松本人志
脚本、松本人志、高須光聖
製作:岡本昭彦
出演:松本人志、UA、竹内力、神木隆之介、板尾創路、海原はるか

2007カンヌ国際映画祭監督週間正式出品作品

公式サイト
http://www.dainipponjin.com/

今作のDVDとアート&シナリオブックです。
  

ストーリーと映画情報
とある冴えない男がTVクルーの取材を受けている。名は大佐藤。彼の職業はヒーロー。獣が現れた時には、巨大化し、こん棒を持って立ち向かうのだ。先祖代々続くこの家業は、かつては人に崇められる存在だったが、現代では疎まれている。そんな大佐藤の日常をカメラは捉えていく。笑いの求道者、ダウンタウンの松本人志の第一回監督作品。

「映画」という枠組みは何を指す?
・この作品を、人に紹介する時、必ずこう云うようにしている。「映画として見るんじゃなく、コントを二時間見るつもりで見るように」と。この作品は、いわゆる皆が映画だと考えているものを提供しない。松本氏自身もTVなどで自分がやってきたことの延長線上にあるものだと語っている。
・様々な所で酷評されているこの作品。その大部分は、「これは映画ではない」という類のものだ。たしかに、この作品は映画館で上映されていたという事実を除けば、およそ映画らしいものは見つからない。
・松本人志の笑いは「脱臼」である。本来の言葉や様式の持つ意味に絶えず「ズラし」を与えることによって、意味を破壊する。故に彼の笑いは時に意味不明な印象を与えることがある。ガキの使いの笑ってはいけないシリーズは、笑わせる事を目的としいるお笑い番組の趣旨を脱臼した企画と云える。脱臼の典型的な例は、ガキの使いのフリートークだろう。聞いてもしょうもないハガキの質問に、松本が意表を突く、というよりも敢えて聞きたいことから離れたことを答えとして返す()。そんな男の作った映画である。そもそも「映画」を期待する方が間違っている。
・しかし、そもそも映画とは、何をもって映画となるのか。我々は確かに「これは映画だ」という漠然としたイメージは持っている。約2時間の濃密なストーリーを映像上で展開した何者かを我々は映画と呼ぶ。何が映画なのかについて、はっきりとした定義はない。故に映像作品であれば、本来どんなものでもスクリーンで上映されさえすれば、映画足り得る。そう。何が映画なのかを決める権利など、実は誰にも無い。

映画に対するイメージを脱臼する
・物語は、架空のドキュメンタリー形式で進む。それ自体は珍しくもなんともない。ブレアウィッチプロジェクトなどと同じ手口だ。主人公の大佐藤は、ある種のヒーローであるとされているが、ヒーローに従来ある格好よさは、微塵もない。電流を流すと巨大化するこのヒーローは、一旦大きくなると、元の大きさに戻るまで数日間を要する。ここに松本の脱臼の美学を感じる。「巨大化するヒーロー」という完全ファンタジーな設定のものに、元に戻るのにエラい時間がかかるという妙なリアリティを追加してしまう。しかも、その戦いの模様は深夜に放送され、視聴率をきにしなくてはならない。しまいには、胸や背中に広告を背負わなければ給料が発生しない。本来、ヒーローのような存在は、そんな現実的なわずらわしいものから、解放されたとこに存在する。それゆえに、人はそこに夢を見ることができるのだが、松本は、そうしたヒーローの需要のされ方そのものを脱臼している。
・様々な議論を呼ぶ、あのラストシーン。映画であれば、誰もが結末にむけて大きな展開を期待し、ある種のカタルシスを求めるであろう。起承転結、序破急、いろいろ呼び方はあるが、「普通」の映画は、結末に向けて周到に計算し、カタルシスを得られるように作るだろう。しかし、この作品のあの、作品全体を打ち壊すかのようなラストは、映画に対するイメージに対する、ある種の挑戦だ。本編で投げかけられた疑問にあのラストは、一つも答えていない。まるでガキの使いのハガキに対する回答のように。しかし、映画は最後にしっかりと答えを出さねばならないなどと、一体誰が決めたというのか。単に我々は漠然とそれを信じているに過ぎない。松本は、ここで映画そのものを脱臼しようと試みている。

映画とは何か、この問いに厳格な答えを見出し、映画に一定の枠組みを与えてしまった時、映画の進化は止まる。進化の停止は死と同義だ。映画も100年を超える歴史を重ねた。こういうものが映画なんだろうと、漠然とした共通理解がすでに出来かけていたこの時代に、あのような作品を発表することは、常人には出来ない。そのことだけでもこの作品と松本人志を評価する価値はあるのではないか。

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2007年11月04日

映画レビュー#57「殯(もがり)の森」

mogari.jpg
基本情報
監督:河瀬直美(萌の朱雀、火垂、沙羅双樹)
脚本:河瀬直美
製作:河瀬直美
出演:うだしげき、尾野真千子、渡辺真起子

2007カンヌ国際映画祭グランプリ受賞

公式サイト
http://www.mogarinomori.com/

河瀬監督の代表作「萌の朱雀」と「沙羅双樹」です。
  

ストーリーと映画情報
幼い息子を亡くした若い介護へルパー、真千子は、奈良の山奥にあるグループホームに就職する。そこには、認知症を持つお年寄りが介護士と共に静かにくらしている。そのうちの一人、しげきは亡き妻との思い出の中に生きている。ある日、妻との思いでの詰まったバッグを何気なく手にした真千子をしげきが突き飛ばす。その日を境に真千子は自身を失いかけるが、しげきとの触れ合いのなかで次第に自身を取り戻していく。そして、ある日二人は、しげきの妻の墓参りに行くことにする。しかし、山の森の奥深くにあるその墓に向かう途中、二人は多くの困難に突き当たる。。。。
「萌の朱雀」でカンヌ映画祭新人賞を最年少で受賞した河瀬直美監督が、今作で同映画祭グランプリを受賞。

河瀬直美という映画作家
河瀬直美は、映画の作り方を知らない。誤解しないで欲しいが、これは彼女を絶賛するための言葉だ。河瀬監督は、通常の映画文法に乗っ取って映画を撮ることをしない。彼女の長編デビュー作であった、「萌の朱雀」では、國村隼扮する父親もやたら唐突に自殺してしまうし(情熱を傾けていた鉄道工事の計画が中止になったため、とパンフや様々な解説文にはあるが、映画そのものから読み取る事は、いささか難しい)、火垂では豪雨のシーンなのに、画面の奥の方は完全に晴れてしまっている。普通ならあんなシーンは使い物にならない、と判断する。今作でも、突如、森の中で豪雨に見舞われるシーンがあるが、やはり画面の奥の木や葉に雨が当たっていない。しげきが川を渡るシーンで挿入される激流のようなイメージカットもあまりにも稚拙な挿入のされ方だ。ストーリー構成も行き当たりばったりな感がいなめない。所謂シネフィルを自称するような映画オタクには、最も苦手なタイプの監督であろう。
しかし、それでも河瀬監督の作品は傑作だ。所謂シネフィルの価値基準とは別に評価基準があるからだ。シネフィルの基本的な考え方は、「全ての映画は既に撮られてしまっている。故にオリジナリティーというものは存在せず、コピーと反復しかできない」というものであり、故に過去の映画を見て、批評して分析しなければならない、というものです。ウォルター・ベンヤミンは、映像のような複製芸術にはアウラが宿らない、と云った。アウラとは事物から発生する唯一無二の雰囲気や空気を指す。シネフィルの基本概念はこのベンヤミンの思想やマルセル・デュシャンの同様な指摘に端を発すると思われる。しかしながら、河瀬監督の作品には、他の映画作家の作品からは感じ得ないような、異様な雰囲気がある。それはアウラとは呼べないだろうか。

何が唯一無二のものを創るのか
彼女が映すものは、自身が生まれ育った奈良の自然であり、そこに暮らす市井の人々である。基本的にプロの役者ではない人を彼女は起用する。役者は、自分以外の誰かを作り上げる。そこに本人の持つ空気があってはいけない。対して、演技のできない素人を映画に起用することは、その本人の持つ空気をまさに映画に取り込むことを目的とする。映画前半のグループホームの老人たちのつぶやきは、おそらく脚本として起こされた文字を云わせたのではなく、インタビューか何かで、本人達が云ったものをそのまま使用しているのであろう。通常の「反復」された台詞とは明らかに違う重みを帯びている。本物の老人、本物の自然、それらが彼女の作品にアウラをあたえているのだろうか。おそらくそれだけではないだろう。彼女自体の映画製作に対する姿勢にも起因するのではないか。彼女は決して自分のグラウンドである場所から離れて映画を作ろうとしない。云うなれば、彼女は、自分のアウラを構成しているもののそばでしか映画を撮らない。それが、作品にパーソナルな雰囲気を映画全体に与えているのではないか。途中の作りが稚拙だろうと何だろうと、映画全体にその「アウラ」が宿っていることが大事なのだ。逆にどこかの映画を見て学んだ技法などを取り入れたら、返ってそのアウラは消失してしまうかもしれない。人によっては、その姿勢は観客のことを考えていない「マスターベーション」と捉えるだろう(実際にそういう評価はネット上に多い)。しかし、マスターベーションと呼ばれるほどにパーソナルな物を普通、人間は人にさらすことなどできない。そうでもしなければ、映画という複製芸術にアウラを宿らせることは出来ないのではないか。

河瀬直美は、シネフィルに対して強烈な挑戦状を叩き付けている(本人は意識していないだろうが)。複製技術である映像を用いて、存在のオリジナル性を探そうとする河瀬監督の探求は、オリジナルであることをあきらめた今日の映画という複製芸術の可能性を広げるかもしれない。

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